日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したと話題です!
その代表委員を務める箕牧智之(みまき としゆき)氏の経歴についてまとめました。
箕牧智之プロフィール
【速報動画】ノーベル平和賞に日本被団協
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— NHKニュース (@nhk_news) October 11, 2024
生年月日:昭和17年3月15日(2024年10月現在:82歳)
出身地:東京→広島
現住所:北広島町吉木
*お米作りをしながら暮らしている
*浄土真宗本願寺派の熱心な門徒でもある
箕牧智之の経歴
箕輪智之さんの経歴についてまとめました
3歳時東京大空襲に遭う
1945年3月9日:東京板橋区在住 東京大空襲に遭う
1945年(昭和20年):5月に父の故郷である広島に疎開
1945年(昭和20年):8月6日広島原爆投下
原爆投下時は20キロ離れた
安佐郡飯室村(現:広島市安佐北区飯室)の自宅で遊んでいたそうです。
東京大空襲に遭い、広島へ疎開した3ヶ月後に原爆投下
3歳時疎開先の広島で被曝
原爆投下の翌日に母親と1歳の弟と三人で広島市内へ行き
入市被曝しました。
父親の省吾さんは広島駅に勤めており駅の地下で被爆しました。
自宅に帰って来ない父を捜すため、母と一緒に広島市内を歩きました。
お母さんは1歳の弟をおんぶしていたため、3歳の箕牧さんは歩き続けたのでしょう。
異様な匂いの中歩き続けた時の思いを想像するだけで
辛いですね。
お父さんは地下室にいたため助かり
3日後に会えたそうです。
10歳時 高熱が続き4ヶ月寝込む
箕輪智之さんの両親は農作業や土木工事の仕事に出ていたため
自炊は箕輪智之さんがしていたそうです。
箕輪智之さんは被爆後、体調不良が続き
10歳の時、高熱が続いて4ヶ月寝込みました。
両親は辛く貧しい生活の中、
高価な薬を買って、必死に看病をしてくれたそうです。
高校卒業後
戦後は旧豊平町(現:北広島町)で暮らしました。
箕輪智之さんは
寮生活で土曜日の夕方には自宅へ帰り、農作業の手伝いをして
月曜日の朝に出勤という生活をしていました。
町議会議員
箕輪智之さんは町議会議員も務めました。
被曝の体験については当時3歳だったため、記憶があまりなく
語ってきませんでした。
坪井直さんと出会い被爆者活動を本格的に始める
2005年 豊平原被爆者の会長 栗末義則さんが引退し、後を託された
広島県原爆被害者団体協議会理事長
2010年ニューヨークへ
箕輪智之さんは坪井直さんと一緒にニューヨークへ行ったことが
被曝者運動として成長していく第一歩になったと語っています。
と語っています。
2021年10月24日 坪井直さんが逝去
本格的な活動のきっかけとなり核根絶を訴え続ける姿に
感銘を受けた坪井直さんが96歳で亡くなりました。
その後、坪井さんの活動が箕輪智之さんに託されたのです。
2022年:日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員に選ばれる
2021年に坪井直さんが逝去され
日本被団協の代表委員の席が空席になっていた。
そこに、箕輪智之さんが選ばれたのです。
箕輪智之さんは荷が重いと話されていましたが
2024年ノーベル平和賞受賞
ノーベル平和賞授賞式 日本被団協代表団がノルウェー・オスロ入り 箕牧智之代表委員「戦争、核兵器大嫌い。平和が一番」 #FNNプライムオンライン https://t.co/ydRBYIJdVl
— FNNプライムオンライン (@FNN_News) December 9, 2024
- 日本被団協全国理事
- 広島県被団協理事長代行
- 北広島町原爆被害者の会会長。
箕輪智之の学歴は?
箕輪智之さんの学歴は
昼間の定時制高校卒業です。
金、土、日曜日は休みのため、アルバイトで授業料やお小遣いを稼いでいました。
アルバイトは稲刈り、木材運び、牛の爪切りなどをしていたそうです。
日本被団協(=日本原水爆被害者団体協議会)とは
日本原水爆被害者団体協議会とは
1965年8月に結成された、広島・長崎の被爆者でつくる全国組織です。
長年にわたって国や自治体に援護施策の拡充を求める一方で
国連軍縮特別総会や核不拡散条約(NPT)再検討会議といった国際会議に代表者を派遣していました。
被爆体験の証言や原爆展の開催、署名活動などを通じて
世界に向けて核兵器廃絶や核実験禁止を訴え続けてきました。
その活動が身を結び、
2024年にノーベル平和賞を受賞したのですね!!
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