箕牧智之(みまき としゆき)の経歴・学歴は?82歳代表が語る3歳時被爆体験

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日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したと話題です!

その代表委員を務める箕牧智之(みまき としゆき)氏の経歴についてまとめました。

 

箕牧智之プロフィール

名前:箕牧智之(みまき としゆき)
生年月日:昭和17年3月15日(2024年10月現在:82歳)
出身地:東京→広島
現住所:北広島町吉木
*お米作りをしながら暮らしている
*浄土真宗本願寺派の熱心な門徒でもある
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箕牧智之の経歴

箕輪智之さんの経歴についてまとめました

3歳時東京大空襲に遭う

1945年3月9日:東京板橋区在住 東京大空襲に遭う
1945年(昭和20年):5月に父の故郷である広島に疎開
1945年(昭和20年):8月6日広島原爆投下

原爆投下時は20キロ離れた
安佐郡飯室村(現:広島市安佐北区飯室)の自宅で遊んでいたそうです。

東京大空襲に遭い、広島へ疎開した3ヶ月後に原爆投下

3歳時疎開先の広島で被曝

原爆投下の翌日に母親と1歳の弟と三人で広島市内へ行き

入市被曝しました。

3歳児ながら大変なことが起こったと感じた
異様な匂いがした

父親の省吾さんは広島駅に勤めており駅の地下で被爆しました。

自宅に帰って来ない父を捜すため、母と一緒に広島市内を歩きました。

お母さんは1歳の弟をおんぶしていたため、3歳の箕牧さんは歩き続けたのでしょう。

異様な匂いの中歩き続けた時の思いを想像するだけで

辛いですね。

お父さんは地下室にいたため助かり

3日後に会えたそうです。

10歳時 高熱が続き4ヶ月寝込む

箕輪智之さんの両親は農作業や土木工事の仕事に出ていたため

自炊は箕輪智之さんがしていたそうです。

箕輪智之さんは被爆後、体調不良が続き

10歳の時、高熱が続いて4ヶ月寝込みました。

両親は辛く貧しい生活の中、

高価な薬を買って、必死に看病をしてくれたそうです。

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高校卒業後

戦後は旧豊平町(現:北広島町)で暮らしました。

箕輪智之さんは

1961年3月定時制高校卒業
鋳物工場へ就職し施盤工として働く

寮生活で土曜日の夕方には自宅へ帰り、農作業の手伝いをして

月曜日の朝に出勤という生活をしていました。

町議会議員

箕輪智之さんは町議会議員も務めました。

被曝の体験については当時3歳だったため、記憶があまりなく

語ってきませんでした。

坪井直さんと出会い被爆者活動を本格的に始める

2005年 豊平原被爆者の会長 栗末義則さんが引退し、後を託された

広島県原爆被害者団体協議会理事長

2010年ニューヨークへ

箕輪智之さんは坪井直さんと一緒にニューヨークへ行ったことが

被曝者運動として成長していく第一歩になったと語っています。

坪井直さんが不撓不屈の精神で核根絶を訴える姿に感銘を受け
後世に伝える責任と使命を感じた

と語っています。

2021年10月24日 坪井直さんが逝去

本格的な活動のきっかけとなり核根絶を訴え続ける姿に

感銘を受けた坪井直さんが96歳で亡くなりました。

その後、坪井さんの活動が箕輪智之さんに託されたのです。

2022年:日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員に選ばれる

2021年に坪井直さんが逝去され

日本被団協の代表委員の席が空席になっていた。

そこに、箕輪智之さんが選ばれたのです。

箕輪智之さんは荷が重いと話されていましたが

前会長の坪井直さんのようにはできないが
「私流にやるしかない」と
核兵器廃絶への思いを引き継ぎました。

2024年ノーベル平和賞受賞

2024年:ノーベル平和賞受賞
3歳の時の記憶は断片的で、箕牧智之さんが語る体験の多くは
母から聞いた話だと言います。
身をもって被爆体験を語る
前会長の坪井直さんのようにはできないが
「私流にやるしかない」と
核兵器廃絶への思いを引き継ぎ活動していました。
普段は、広島市の中心部から25キロほど離れた
北広島町の農村部で米作りをしながら暮らしています
著名集めや、記者会見などの用事があるたびに高速バスに乗って広島市に出かけていました。
被爆者の中では’’若手’’にあたりますが、足腰も弱って、入院もしていました。
「私たちが生きとる間に核兵器を無くしてください」
という思いで活動してたそうです!
その思いが実り
2024年10月11日ノーベル平和賞受賞!
おめでとうございます!!
【他には下記の代表としてご活躍されていました】
  • 日本被団協全国理事
  • 広島県被団協理事長代行
  • 北広島町原爆被害者の会会長。
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箕輪智之の学歴は?

箕輪智之さんの学歴は

昼間の定時制高校卒業です。

金、土、日曜日は休みのため、アルバイトで授業料やお小遣いを稼いでいました。

アルバイトは稲刈り、木材運び、牛の爪切りなどをしていたそうです。

日本被団協(=日本原水爆被害者団体協議会)とは

日本原水爆被害者団体協議会とは

1965年8月に結成された、広島・長崎の被爆者でつくる全国組織です。

長年にわたって国や自治体に援護施策の拡充を求める一方で

国連軍縮特別総会や核不拡散条約(NPT)再検討会議といった国際会議に代表者を派遣していました。

被爆体験の証言や原爆展の開催、署名活動などを通じて

世界に向けて核兵器廃絶や核実験禁止を訴え続けてきました。

その活動が身を結び、

2024年にノーベル平和賞を受賞したのですね!!

 

 

 

 

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